くぼてさん

標高 782m
駐車場→座主坊跡→みそぎ場→安浄寺跡→獅子の口水場→鳥居前の分岐分岐→中宮→鬼の鐙→上宮(山頂)→護摩場跡→大日窟→普賢窟→多聞窟→吉祥窟→阿弥陀窟→鳥居前分岐→駐車場

求菩提山は修験道の山である。しかし、明治維新の廃仏毀釈によって、その寺院群は、今は廃墟と化してしまった。修験道というものを考えさせられた山だった。
求菩提山

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2004年11月21日

犬ヶ岳から下山して、駐車場で食事をした。買ってから
3日もたってしまった鍋やきうどん、古くなってしまうので早く食べなければと思ったのだ。
これで少しお腹が満たされたので、次に求菩提山に登ることにする。
登山口の駐車場から引き返す。
資料館の横から、急な道をいくつつもの急カーブを曲がって登って行く。途中に石仏をいくつも見ることができた。帰りに写真を撮ろうと思う。
山頂付近に駐車場があって、ここに車を停めた。
駐車場の奥から石段を登って、上に出ると参道がある。
すぐに分岐があった。右が山頂に向かう道なのだが、左に座主院跡とあるので、寄って行くことにした。時間は余っているので、何でも見てやろうという感じである。
古い石畳と、石段が続く。
昔は建物があったんだろうと思われるところがあった。もう何も残っていなくて、低い石垣が苔むしている。その先に山伏の水垢離場があった。ここが突き当たりのようである。
四角い池のようなところで、そこに小さな滝が落ちている。ここで山伏が滝浴びの修行をしたのだ。
もとの分岐に引き返す。
ここからは、本当に古い苔むした石段の道を登って行く。この求菩提山の登山は登山ではない、昔の修験道の遺跡を巡るをウォーキングなのだと思ってしまった。
石段を登りきったところがT字路で、左が山頂に向かう道、右が岩屋坊への道だ。
道が突き立った正面が安浄寺跡で、石垣に囲まれた広場がある。中に入ってみると、雑草が生い茂る中に古い石仏や石塔が散らばるようにおかれていた。そのどれもが苔むしていて、本当に廃虚のようである。
さらに右に進むと岩屋坊がある。今は無人のようで、この建物もなにかしら廃屋のような感じがする。
分岐に戻って、再び石畳の道をたどる。途中に「獅子の口」という水場があった。鬼のような面相の石像の口から水が流れ出ている。
さらに進むと、左に大きな石の鳥居があって、分岐になっていた。まっすぐ進むと阿弥陀窟とかの、昔山伏たちが修行したいろんな窟を見ることができる。私は帰りにこの道を戻ってくるつもりである。
鳥居を潜って石段を登って行く。
15分ほど登って行くと、神社の本殿が見えてきた。これが中宮で、本当は護国寺跡なのだ。
私はこの登山の後で、資料館に寄ったのだが、そこで仕入れた知識で言ってしまうのだが、明治になって、政府は廃仏棄釈の令をだして寺院を徹底的に弾圧したのだ。特に、修験道の寺は神社と仏教が混合してしまっていたので、神社優先の政府はこうした寺院を徹底的に廃絶に追い込んだのだ。
この求菩提山も、九州では修験道の中心的な霊場であったのだが、これを廃絶させられ、かわって神社になってしまったのだ。
この中宮、国玉神社は明治になって建てられた神社なのだ。そしてその本殿の横に残された低い石垣の四角な区画が本来の修験道の寺院の跡なのである。
神社の右横から細い急な石段が続いている。これが「鬼の鐙」で、全長80mほどある。鬼が一夜にして築いた道だと言う。
この急な崩れかけたような石段を登って行く。山頂直下になると、その傾斜はさらに急になって、こんなとこ登るのかと思うほどである。これをジグザグに登って、ようやく山頂の広場に着く。
ここにも神社の本殿があるが山頂の標識はなかった。
しかし、よくみたらこの神社の木の階段に、マジックで山名を書いた小さな板が打ち付けられていた。なんかさびしい山頂である。
本殿の後ろには巨岩が累々としている。これは、やはり修験道の霊域の跡で、貴重なものらしいのだ。
私はこの神社の後ろの巨岩を乗り越えながら、帰りの下山路を探した。ところが見つからない。困ってしまった。
来た道を引き返そうと思って、本殿前の石段を降りたら、その右に踏み跡を見つけた。
これかな?と思って少し行くと指導標があった。よかった。
この道をたどって下山する。
この道は求菩提山を大きく廻り込んでゆくために、登ってきた道よりもかなり遠回りになる。この途中に、修験者たちが修行した窟が5つある。これを巡って行く。
峠のようなところに着いて、そこが犬ヶ岳への分岐になっている。胎蔵界護摩場跡である。そこに一人の登山者が休憩していた。驚いたことにこの人は犬ヶ岳の「一の岳」で会った、松本から自転車で来ているというひとだった。犬ヶ岳からこちらに縦走してきたのだそうだ。これから林道を歩いて帰るのだそうだ。本当にたくましい人である。
私はさらに下って行く。最初にあったのは大日窟。これから5つの窟を巡るのだが、これらの窟はたいてい、大きな岩壁の下にあって、今は小さな祠があるだけである。
窟というから、昔は洞窟があったんだと思うが、説明板を読むと、そのほとんどが落盤で塞がれてしまっているという。この後、普賢窟・多聞窟・吉祥窟と巡って、最後の阿弥陀窟に着く。ここから分岐はすぐかと思ったら、そうではなかった。かなりの距離を歩かなければいけなくて、おまけに少し登らなければいけないのだ。
鳥居の前の分岐に戻って、石段を下る。
この山を登って、修験道にものすごく興味を持ってしまった。資料館に立ち寄ることにした。
曲がりくねった道を下って行く。時間は3時半を過ぎていた。資料館は何時までやってるのか心配になってくる。それでも車道の道端の石仏がけっこうすばらしくて、つい車を停めて写真を撮ってしまった。これを何度か繰り返す。
資料館は4時半まで開館していて、入場は無料であった。うれしい。
展示されたパネルに、全国の修験道の山が表示されていた。北海道にはない。
その山々をみていると、そのほとんどに私は登っていた。名前の知られた山は、そのすべてが修験道の山ということがわかる。

修験道について考えてしまった。
修験道というのは飛鳥時代の「役の行者」が開祖であるという。役の小角という。
修験道というのは本当に不思議な宗教で、仏教でもあり、土俗のわけのわからない宗教でもあり、中国の陰陽道の考えも入っていたりする。呪術でもある。
後世、山伏が呪術を行うに護摩を焚いたりするから、密教の考えも入っていて、天台派と真言派があるのだ。
密教らしさという点では、本尊として不動明王をまつっていることからもわかる。でも山伏の本尊は蔵王権現なのだ。
修験道者が山伏である。
彼らは霊山を巡って自然と一体化して、その自然の中で生きることで、宗教的な何かしらを得ようとしていたのだ。
考えてみると、登山者もこの修験道者に似ている。
なんか、深く考えさせられたしまった。


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登山口の駐車場


みそぎ場


石段を登りきるとT字路


安浄寺跡の石仏


獅子の口の水場


中宮に向かう参道の鳥居


鬼の鐙を登る


山頂の標識


護摩場跡


阿弥陀窟


窟には石塔が散らばっていた


登山口に戻ってきた


求菩提山を振り返る






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