2008年春山陽山陰登山
いわきさん

標高 362m
結界石柱→35分→石城神社→10分→石城山山頂(高日峯)→東水門→北水門→西水門→40分→登山口

この石城山は古代史跡神籠石のある山で、登山というよりはこの遺跡巡りの散策といったほうがいい。
石城山山頂の高日神社

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2008年5月14日

今日はもう一つ山に登る。石城山である。この山は朝鮮式山城で、神篭石という遺跡を見ることができるのだ。琴石山登山口の金剛寺からは
15kmほど車を走らせなければいけない。
峠から下って行くと登山口があるはずなのだが、それがわからない。どんどん下ってしまうので、もう一度ひきかえした。注意しながら走って行くと左に石柱の門のようなものが見えた。これがガイドブックにある結界石柱だろうと思って、近くの路肩に車を停めた。身支度をして歩き始めたのは1240分である。
石柱の後ろには狛犬があって神社の入口でもあるようだ。この道でいいのか心配なのだが、とにかく行ってみるしかない。畑の中を緩やかに登ってゆくと石城山県立公園1.4kmの指導標があった。この道で間違いないようだ。
田んぼの横を少し歩いて樹林の中に入る。道は落ち葉などで覆われているのだが、コンクリートで固められた簡易舗装であった。
鬱蒼とした自然林の中を緩やかに登って行き、竹林の中に入る。この付近は竹林が多いのだ。
登山口から
25分で分岐点に着いた。左に下ると伊賀口で右が石城山への道である。私が歩いてきた方向は三鍛冶屋となっていた。
山頂に向かって登って行こうとして、ふと見るとお堂がたっている。正面に回りこんでみたが、なんという神社なのか額もかかっていなかった。
ここから5分ほど緩やかに登ると道が何本にも分かれるところに着いた。その真ん中には新しい標識がたっていて「第二奇兵隊士首置松跡」とかいてある。奇兵隊というのは、幕末の長州戦争で活躍した軍で、高杉晋作が一般町民によって組織した軍隊なのだ。江戸時代では戦をするのは武士に限られていて、町民が兵となるのは画期的なことだったのである。
ここには山頂まで400mと書かれた指導標が立っていた。
樹林の中を行くと、途中に変な指導標がたっていた。石城神社を指しているのだが、それが曲げられて登ってきた方向を指している。いたずらか、とも思ったが。よく見ると。指導標の文字が、道から見ると裏に書かれていて、これを見せるために曲げたようでもある。指導標の立てる位置を間違えたのだろう。
石城神社についたのは1315分であった。草地の広場があって、その奥に社が見える。この広場にはいくつもの石碑がたっていた。石城山第二奇兵隊本陣跡というのもある。
本殿の前に着くと、こけら葺きの社で国の文化財に指定されたものだった。灯篭の並ぶ参道を行くと茅葺の山門があった。私は神社の裏から入ってしまって、表参道を歩いて神社の外に出ることになったのだ。門をくぐって車道に出る。さて、山頂はどっちだと探したら、山頂周辺のイラストマップがたっていた。車道を右に行ったところに登り口があるのだ。遊歩道が続いている。
ここからは登山というよりは古い神社と国指定史跡の神籠石巡りになってしまう。
神籠石とは巨石が山の中腹にハチマキのように並んでいる古代遺跡のことである。神籠石は明治31年(1898)福岡県の高良山で最初に発見されたのだが、この遺跡が何のために構築されたのかは長いあいだ謎だったのだ。神域の境界石とする説と山城とする説の論争が行われてきたのだが、この石城山の大規模発掘によって古代山城であることがはっきりしたのである。
私は古代史が好きなので、けっこう今回の登山には期待するところが大きいのだ。
遊歩道を行くと、すぐにコンクリート造りの荒神社があった。神社の広場から下に柳井の市街を見ることができた。
樹林の中の道を歩いて行くと、左に宇和奈利神社、磐山神社と続く。鳥居があってその奥にあまり大きくない祠が鎮まっていた。
遊歩道から少し右に入るとお寺の本堂のような建物があった。でも、これはお寺ではなくて「日本神社」であった。こんな名前の神社が存在するとはまったく知らなかった。神社の境内には「さざれ石」がある。あの君が代の歌にあるさざれ石なのだが、ここだけのものではなくて、けっこうあちこちの神社にあるのだ。
遊歩道に戻った正面には若宮神社がある。
さらに遊歩道を歩いて行くと、物部神社と五十猛神社があった。これだけたくさんの神社があると、神籠石は神域の境界石という説が正しいのではないかと思ったりする。
遊歩道から左に上がって行く細い道がある。これが石城山最高点の高日峯に向かう道である。
緩やかに登るとすぐに神社の前に着いた。
ここが石城山の山頂ということになるのだが、山名の標識も三角点もなくて、神社の社殿がたっているだけであった。少しがっかりしてしまうのだが、今回の目的は神籠石の史跡巡りなんだと割り切ることにして、神社に手を合わせてから下った。
遊歩道に合流すると石の鳥居がたっていた。このあたりに「三千巻納経五輪塔」あるはずなのだが見あたらない。あきらめようと思ったら、道ばたの草むらに小さな五輪塔があった。三千巻納経というから、すごく大きいものを想像していたのだ。この横には小さな石仏もたっていた。
遊歩道を少し行くと左折して神籠石を巡るコースに入る。
最初にあったのが東水門で「山姥の穴」ともいわれている。古い石垣があって、その下に排水口が開いていた。
樹林の中の平坦な道を行くと、道の左側は土手のようになっていて、その基部に四角い石が並べられている。これが神籠石である。でも、石が新しいような気がした。
視界が開けて下に集落が見えた。ここがイラストマップの見晴台なのだろうか、と思った。
少し行くと道の左に大きな岩があって、そこには「夜泣岩」という標識がたっていた。
夜泣石のすぐ先が北門である。石組みは遊歩道の谷側下にあるので見ることはできなかった。でも、ここには神籠石があって、その上に説明板がたっていた。ここの神籠石は古いもののようであった。
北門から少し行くと大きな岩がそそり立っている。これが龍岩である。後で龍尾岩もあったので、神籠石の連なりを龍の胴体と見立てていたのかもしれない。
神籠石に沿って歩いて行くと北水門に着く。しっかりした石垣が残っていて、その連なりはけっこう長い。排水溝も開いていた。
この先の西水門は三段の石垣で造られていて、この石垣のの端にある大きな岩が龍尾岩であった。
西水門から少し階段を上がって行くとコンクリート造りの東屋がたっていた。ここまでくると神籠石巡り出発点の石城神社はすぐである。
神社からは登ってきた道を引き返して、車の前に戻ったのは
14時30分であった。ずいぶん長い間歩いていたような気がしたが、たった2時間の山歩きであった。


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結界石柱から歩き始める


指導標があった


分岐点に着く


首置松跡


第二奇兵隊本陣跡、この奥が石城神社


車道から遊歩道に入る


五十猛神社


左が最高点の高日峯に向かう道


最高点にある高日神社


五輪塔のそばに立つ鳥居


これが神籠石か?


北水門


登山口に戻った





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