つばくろだけ 標高 2763m |
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1991年1月1日 仙台にいた頃は仕事がけっこう忙しいときで、盆休みと正月休みしか山には登れずにいたのだ。 この年は、冬の槍ヶ岳が見たくて出かけた。
燕岳は、大阪から松本に転勤して初めて登った山であった。1975年のことである。 その頃、新田次郎の「孤高の人」にはまっていて、加藤文太郎さんも日本アルプスで最初に登ったのは燕だ、などと思いながら頂上を目指したものである。 ただ、それまでは大阪に住んでいて日本アルプスのような3000m級の山というのはまったく初めてで、不安と期待でいっぱいだったのを覚えている。 大阪にいたときは住んでいたのが兵庫県西宮市甲子園で、加藤文太郎さんのまねをして、甲子園から歩いて六甲山に登って、歩いて帰って来るということをして満足したりしていた。 そして、その頃は東海自然歩道ができたばかりで、日曜ごとにこのコースを歩いて、そんなことをしながら地図の見方と磁石の使い方を覚えた。長距離歩くことにもだいぶ自信がついてきていたのだが、それでもいざ、日本アルプスとなると少しびびってしまったりしたのだ。 燕の稜線から、初めて槍ヶ岳を見たときは本当に感動した。日本にこんな美しい風景があるのか、と思ったものである。 さて、このビデオに撮ったときの山行は1991年の正月で、仙台から新幹線で東京に出て、新宿から夜行に乗ってバスで登山口へ。 バスは中房温泉までは行っていなくて、かなりの距離を歩いた。 中房温泉に着いたのは9時頃で、雪はほとんどなかった。 この日は天気がよくて、登るにつれて展望が開けてきて、気分は上々であった。 合戦の小屋には3時少し過ぎに着いた。 稜線に出たのは4時頃である。 この頃、だいぶ雲がかかってきて槍ヶ岳が見えるか心配だったが、尾根の向こうに小槍を従えた槍の穂先が見えたときは、大満足。 この日は燕山荘に泊まった。 翌朝、正月。 外は霧で真っ白。 早く出てもしかたがないので、ゆっくりと出た。 それでも霧は晴れなくて、視界のきかない中を頂上めざして出発した。風も強い。 ちょっとした吹雪である。 頂上は自分一人であった。 頂上からの帰りは少し霧が薄くなって、燕岳を取り巻く花崗岩の奇岩が少しだけ見ることができた。 燕山荘前に帰ってきたのは11時頃。 預けていたザックを背負って、この日のうちに下山した。 この山行には後日談があって、1月の末に知らない人から手紙がきた。 それは、同じ時に燕岳に登った人の身寄りの方からで、行く方不明になっている人がいるようで、その消息を照会して来たものであった。 服装とか装備について説明されていたが、残念ながら記憶になかった。 その後、5月になって遺体が見つかった旨の手紙をいただいた。 山での遭難というのを本当に身近に感じた。 私の山は本当に自己流だけで、冬山の道具なども本を読みながら揃えたもので、アイゼン、ピッケルの使い方も山屋さんで買うときに、店員に少し教わっただけ。 実際に冬山の行動も技術を教わったことがないから、滑落なんかになったら、ピッケルワークができるかというときわめて心細い。 それまで、山はほとんど一人で登ってきたのだが、パーティの山もやってみたいと思ったのは、これをきっかけにしてであった。 この年の4月に、仙台から北海道釧路市に転勤になり、釧路の市民サークルの「KHC」というハイキングクラブに入会した。 2000年夏の燕岳のページへ |
バス終点から稜線を見る 雪道を中房温泉に向かう 中房温泉バス停、冬はバスは来ない 第2ベンチから八ヶ岳遠望 槍ヶ岳が見えた 大天井岳 富士山も見えた 燕岳 燕岳山頂三角点 燕山荘前で |
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