登山とピークハント


私は日本のすべての山に登りたいという大それた夢を持っているので、世にいう「ピークハンター」なのだと思う。

でも、百名山や二百・三百名山を目指す人と山で会って話しをすると、なにかしら違うのではないかと思うことが少なくない。
ピークハントと登山はまったく違うのではないかと思ってしまうのだ。
その違いって何だろう。
ピークハンターが目指しているのは「山頂」である。山頂を踏むことだけが目的なのだ。
だから、彼らと話していて奇異に感じてしまうのは、彼らがその山のすばらしさを語ることなく、いかに効率的に速く登ったか、いかにたくさんの山に登ったかということを自慢していることなのだ。
ピークハンターにとっては山頂だけが目的で、その数こそが一番大事なのだ。だからその手段は問わない。車道が通じていたら山頂直下まで車で行ってしまうし、ロープウェイやリフトがあったらそれを使う。ともかくできるだけ短時間で山に登って、できるだけたくさんの山頂を踏む。駐車場から山頂まで30分ほどの行程なら、暗くなってから山頂を踏むことも平気である。だから1日に3つも4つも山に登ったりする。(私も1日に3つの山を登ったりするけど…)
これは、登山なのだろうか。
なにかしら、スタンプラリーとか、変質的なコレクターに似ている。

山頂を踏むということは登山の一部ではあるが、登山のすべてではないと思う。
私は、登山口から山頂に至るまでの「途中」が登山だと思っている。
ピークハントが山頂という「点」だけを目指すのに対して、登山は登山道という「線」にあると思うのだ。
山頂というのは目的地にすぎない。たしかに山頂にはすばらしい展望もあって、ついに目的地に到達できたという充実感を得ることができる。でもそれは山頂に至るまでの「途中」があったればこそである。
登山の本当のすばらしさは、山頂に至るまでの「途中」、登山路にあると思うのだ。
あえぎながら登る標高差1000mの急傾斜。
登山道の脇に咲く可憐な花たち。
心いやされる新緑のブナ林。
池塘が散らばり、高山植物の花が咲き乱れる湿原。
風が吹きつけ、霧が流れる稜線。
目の覚めるような鮮やかな紅葉。
足がすくむ急峻な岩稜。
これらを省略してしまったら、登山の楽しさはほとんどなくなってしまう。

たとえば日本百名山でも、車やリフトを使って登れる山は少なくない。
こんな山は百名山から外すべきだと、批判を受ける代表的なものが八幡平・筑波山・霧が峰・美ヶ原山等である。それは、これらの山が車やリフトで山頂直下まで行けて、労せずに山頂を踏むことができるからだ。
その他にも、岩木山はスカイラインで8合目まで行けて、さらにリフトを乗り継いだら9合目まで行くことができる。
伊吹山だって車で8合目まで行けるし、蔵王山、大台ケ原山、霧島山も同じように山頂の近くまで車で行ける。
ピークハンターたちは、こうした交通機関を使って山頂を踏んで「登った」とする。山頂を踏むことだけが目的なのだから、当然といえば当然である。
そして、これらの山を百名山から外すべきだと批判する人たちにかぎって、歩くことなく登った人なのだ。
自らがつまらない登山をしておいて、八幡平や霧が峰を百名山から外すべきだ、などいうのは、私にしたら笑止である。
たとえば八幡平、たしかにアスピーテラインで「みかえり峠」まで車で行くならば、そこからは平坦な道を20分ほど歩くだけで山頂に着いてしまう。でも、八幡平の登山路はそれだけではない。岩手山から縦走することだってできるし、蒸ノ湯から登ることだってできる。実際に歩いて、登って、それで初めて八幡平の広大さと美しさを実感できるのである。
美ヶ原にしても、三城牧場から絶壁のような登山路をあえぎながら登ってこそ、ようやくたどり着いた山頂に、想像もできない広大な草原が広がっているのに感動するのだ。
また大台ケ原山の最高峰は日出ヶ岳なのだが、これも山頂駐車場からは、ほとんど標高差のない道を40分ほど歩いて山頂に着くことができる。でも、大台ケ原のすばらしさは大杉谷にある。山頂部を周遊してから大杉谷に下ってこそ、この山のすばらしさを知ることができるのだ。
霧ヶ峰も、最高峰の車山に登ってよしとするのではあまりにもつまらない。八島ヶ原湿原や車山湿原を逍遥して、かれんな花々と接することが霧ヶ峰登山である。
例をあげたらきりがない。
せっかくすばらしい山に出かけていって、それが山頂を踏むだけというのではあまりにももったいないと思うのだ。
私は、百名山を完登したとか二百名山を踏破したなどと自慢する人に、ときどき意地悪な質問をしてしまう。八幡平とか霧が峰はどういうふうに登ったんですかと…。
あの山はつまらなかったというふうに答える人に限って、ほとんど歩かずに山頂を踏んでいるのだ。
こうしたピークハンターたちは気の毒としかいいようがない。
時間がないのだからしょうがないという反論もあろうが、「登山」をしないで山頂を踏むだけというのは、それこそ時間の無駄使いではないか。
使う用もないのに、見栄だけでブランド品を買い集めて、その数を誇るようなものではないか。

私は「登山」をしたいと思っている。日本のすべての山に登りたいというのは、形としてはピークハントである。でも、私は山を楽しみたい。山のすばらしさに触れたくて出かけるのだ。そして、繰り返してしまうが、山のすばらしさは、山頂ではなくて、途中の登山路にあるのだ。
経営においては「手段」と「目的」を間違えてはいけない等といって、手段にとらわれずに本来の目的を達成することが大事だと戒める。でも、山は違うのだ。
大事なのは目的地である山頂ではなくて、その山頂にいたるまでの手段、途中なのである。
登りたい山の地図を見る。山頂直下まで車道が通じている。でも登山道もある。その登山道は尾根の道であったり、沢沿いの道であったりする。車で林道の終点までいったら1時間足らずで山頂に到達できるが、登山道を歩くと3時間かかるとする。このとき、どちらを選ぶかで、ピークハントか登山であるかが決まる。
時間はかかっても、登山路を行くならば美しい渓谷を見ることができるかもしれないし、尾根道ではブナ林やすばらしい展望を見ることができきるかもしれない。
ピークハントか登山か、それは何のために山に登るかということでもある。

私も、長期の登山旅行に出ていると、山に登ることが惰性になってしまって、歩くことがおっくうになってくることがある。車で山頂の近くまで行ってしまおうかという誘惑にかられてしまう。
そのときの私は、まぎれもなく、私が最もきらう「ピークハンター」である。

2006年2月24日





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