2007年早春四国登山
2007/3/29

標高 983m
四郎ヶ野峠→50分→花折峠→50分→小野お茶屋の段→25分→五里塚→25分→地蔵峠→35分→野根山登り口→20分→野根山山頂→25分→岩佐の関跡→2:00→四郎ヶ野峠

野根山街道は安芸郡奈半利町から東洋町野根を結ぶ35kmの尾根伝いの旧街道である。今は遊歩道として整備されていて、ハイキングとして楽しめる山である。
野根山


BACK 千羽ヶ岳

328

日和佐から車を走らせて、東洋町から山道に入る。
峠越えの道になって、左には深い谷を見ながら曲がりくねった道を走って行くが、これでも国道なのだ。ようやく四郎ヶ野峠に着いたら、そこに「野根山街道」という大きな看板がたっていた。四国のみちの案内もあって、ここから野根山街道を歩くことができるらしい。明日は千本山に登って、それから太平洋側に回りこんで明後日に野根山街道を歩くつもりでいた。ここから登れるのなら何も遠回りする必要はない。今夜はここに泊まって、明日、野根山街道を歩くことにしよう。峠に着いたのは2時半だったので、それからは本を読んですごした。


3月29

私のガイドブックでは、野根山街道は奈半利町から歩いて四郎ヶ峠に下ることになっている。でも今回は四郎ヶ峠から歩くことになるので、逆コースである。困ってしまうのは所要時間がわからないことだ。岩佐の関所から四郎ヶ野峠までの下りは3時間かかるのだが、登りではどうなるのかわからない。まあ、一日かけるつもりで歩いたらいいだろう。
出発は625分である。
野根山街道とかかれた大きな看板の前から歩きはじめる。すぐに檜の林の中の急な登りが始まった。
この野根山街道は、安芸郡奈半利町から野根山連山を縦走して東洋町に至る44kmの道なのだ。大和時代に野根山官道として整備されて、江戸時代には参勤交代の道でもあった。土佐から阿波に抜けるには、海沿いに行ったら室戸岬を回り込まなければいけなくて、ものすごく遠回りになる。この山越えにほうが近かったのだ。
今の街道は四国のみちとして整備されているので、広くてしっかりしている。登りは階段になっているのが少しつらい。階段を登るのは本当に疲れるのだ。ジグザグに急登して稜線に着くと、檜林から抜けて照葉樹の林になる。稜線には休憩所があった。
ここから稜線の急な道を30分ほど登って、ようやく花折峠に着く。この峠への急な登りが「花折坂」である。この名は殿様が駕籠に乗ったまま花をつむことができたほどの急登だからつけられたのだ。でも、私はその駕籠を担いだ人の苦労を思ってしまう。
この峠のすぐ先には「五代の崩(つえ)」という説明板があった。別役川によって崩落が続くところで、道筋は何度も変更されてきたのだそうだ。
急な道を下る。稜線の右を斜めに下って行くのだが、それでも急な下りである。どんどん下ってしまって、しまいには右側から沢の流れる音が聞こえてきた。この調子で谷底まで下ってしまうのかと心配になったが、下に流れが見えきたところで鞍部になった。少し平坦な道を行く。
稜線の道を緩やかなアップダウンを繰り返して行く。照葉樹林の林の中を行くので、まったく視界はない。しだいに照葉樹林に日がさし始める。
花折れ峠から20分ほどで「清助地蔵」に着いた。
清助というお百姓が弘法大師の夢を見て、杉の根で地蔵を彫ってここに安置したのだそうだ。霊験あらたかで参拝者も多かったらしいのだが、木の地蔵だったので、朽ちて今はなくなってしまっている。
けっこう急な道を上って行くと、鐙街道との分岐があった。この鐙街道がどんなものかわからないのだが、野根山街道にはけっこういろんな道が交わっているのだ。
標高922mの「一の門」に着いたのは8時である。なぜ一の門というのかわからないのだが、ここから佐喜浜へ下る道がわかれるのだ。けっこう重要な生活道であるらしい。
一の門から少し登って、平坦地に着くと、そこが「小野御茶屋の段」であった。お茶屋の段というのは、峠越えなどの途中につくられた大名行列の休憩場所なのだ。大名行列は数百人もいるのだから、その一行が休憩する場所ってけっこう大変なのだ。周辺のお百姓さんがかりだされて、こうした御茶屋の段や街道を整備させられていたのだという。今、この御茶屋の段には四国のみちのテーブル・ベンチがおかれていて、ハイカーの休憩場所になっているのだ。
ここまで4km1時間40分で歩いたことになる。でも目的地の岩佐の関所まではまだ4.8kmもあるのだ。先は長い。
お茶屋の段から25分歩くと五里塚に着く。奈半利からは一里毎に塚がたてられていたらしいのだが、周辺を見回しても塚らしきものはなかった。でも、最近たてられたと思う高知県の名のある石標がたっていた。この五里塚から岩佐の関所までは3.6kmである。
照葉樹の濃い緑の林のなかを行く。道はしっかりして迷う心配もないし、時々急登はあるが、ほとんどは緩やかなアップダウンである。森林浴のつもりでのんびり歩いて行った。
大きな倒木や苔むした巨木などを眺めて歩いてゆくと、具同寺との分岐があって、そこから緩やかに150mほど登ると地蔵峠であった。
この峠は千本もの杉の巨木でおおわれていて昔は千本峠といわれたのだが、天保3年(1832年)にお地蔵様がまつられるようになってから地蔵峠と呼ばれるようになったのだそうだ。まわりを見回したら小さなお地蔵様がポツンとたっていた。
峠からゆるやかに下って行くと、たしかに杉の木が多いことに気がつく。でもそれほどの巨木はなかった。
峠から15分ほどで伐採地があって、そこから展望が広がっていた。深い谷を挟んで山々が連なっている。本当に深山という感じがする。ここまで来たら今回の登山目標の野根山も近いはずだが…と行く手をみると、ススキに覆われたそれなりに高い山が見える。あれだろうか。(そうだった)
緩やかに下って樹林の中を行くと岩佐の関所まで1.1kmの指導標があった。もうすぐである。9km近くの道を歩くのは本当に疲れる。
きれいな照葉樹の林の中を歩いて行くと、やがて笹がめだつようになって、鬱蒼とした樹林の中の右に小さな登山道の表示があった。これが野根山の登り口であった。もう少しで見逃すところだった。
背の高い笹薮の中を行く。道に笹が覆いかぶさっていて心細い道である。それでも赤いテープの目印がついているので、それに従って笹をかきわけて行くと潅木の平坦地に出た。ここで道がわからなくなった。あちこち探してようやく赤いテープを見つけた。杉林の中を登って行くと道にはたくさんの倒木があって、ものすごく歩きにくい。でも道は比較的はっきりしていて、杉林の中を10分ほど登ると山頂に着くことができた。
山頂には三角点があって、その傍の白い杭に野根山とかかれていた。ともかく山頂に着いた。汗を拭いて休憩だ。今日はいい天気でけっこう暑いのだ。ポッドにお湯をいれてきたが、今日は水でコーヒーをつくった。コップを片手に周りの景色を眺めると、さっき展望した伐採地が見えた。野根山の山頂は杉林なのだが、すぐ下の斜面はススキにおおわれている。それで伐採地からみた山が野根山であることがわかった。
登ってきた道を下って四国のみちに戻る。この先に岩佐の関所跡があるので、そこまで行ってみる。
緩やかに下って行くと林の中に広場があった。石垣が残っていて、これが関所跡かと思ったら、「川島家屋敷跡」なのだ。関所の番士での家である。
この屋敷跡の広場に入ってみると「岩佐の清水」の説明板があった。土佐三大清水のひとつで、承久の乱で配流された土御門上皇がこの清水を飲んで、岩佐の清水と名づけたのだという。さっそく行ってみることにした。50mほど下ると小さな沢に出て、その岩の下から清水が流れ出ていた。コップにすくって飲んでみた。うまかった。
四国のみちに戻って古い石段を登るとすぐに岩佐の関所跡であった。ここには休憩所もあって、関所の簡単な門が復元されていた。
この関所周辺には藩人の家が十数戸もたっていたらしい。その番士の頭が木下家で墓所がこの裏手にある。木下家というのは豊臣秀吉の縁につらなる家で、関が原後、土佐山内家のあずけられて番士になったらしい。
この墓所にも行ってみたが、ここには木下由里の墓があった。絶世の美女だったらしい。
岩佐の関所跡も見学したので、あとは引き返すだけである。
でも、この帰りの9kmの道はけっこうつらかった。少しの登りでも足が重たくて息が切れる。しまいには足底が痛くなってきて、途中の花折峠で休憩しなければいけなかった。
疲れが重なってきている、休養日を設けなければいけないな…と思ってしまった。
登山口の四郎ヶ野峠に戻ったのは1時半であった。延べ7時間の山行であった。


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BACK 四国百名山

四郎ヶ野峠


階段の道を登って行く


花折峠


どんどん下って下に流れが見えるようになった


鐙街道の分岐


一の門


小野お茶屋の段

五里塚


倒木が道をふさいでいた


地蔵峠


伐採地から野根山が見えた


野根山の登り口


杉林の中を登る


野根山山頂


川島家屋敷跡


岩佐の清水


岩佐の関所跡





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