きざん

標高 405m
登山口→15分→東北門跡→15分→基山山頂

基山山頂には城跡がある。私は豊臣秀吉の朝鮮出兵のときの城跡と思っていたら、時代ははるかに古くて奈良時代の朝鮮式山城なのだ。
基山山頂の城跡の碑

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2005年11月26日

午後は基山に登るつもりだ。

昨夜走ってきた道を引き返す。車を走らせて行くと、右手に古墳が見えた。きれいに整備されていて、まわりは公園になっている。立ち寄ることにした。これは仙道古墳といって、国史跡になっている。円墳で、復元された埴輪もたっていた。この公園の一角に建物がある。行ってみると、そこにはこの古墳の石室の中が復元されていた。この古墳は装飾古墳で、石室内にはいろんな図形が描かれていたのだ。
夜須町を過ぎる。このあたりは、安本美典氏が邪馬台国としている。私は彼の説の信奉者である。

道を間違えたりしたが、なんとか基山の登山口に着いた。時間は1230分になっていた。
荒れた林道を歩いて行くと、すぐに右に登山道がある。そこには「基山へ1.4km」という古い指導標が立てられていた。
鬱蒼とした樹林の中を急登する。沢に沿った道を登って行くのだが、階段になっていて歩きにくい。
登ってゆくと、突然民家が見えた。どうしてこんな山の中に家が建っているんだと思ったら、そこは滝の行場なのだ。沢の流れから樋で水を引いかれていて、苔むした不動明王の石仏もおかれていた。なにかしら、暗い雰囲気である。
この上にもう一つ行場があった。沢の流れを渡って、さらに流れに沿って急登する。
傾斜が緩やかになって、着いたところが「東北門跡」である。土塁の跡が残っているのだ。
ここで道を間違えてしまった。指導標があって、左が「史跡めぐりコース」とあったので、この道を行ってしまったのだ。途中には「つつみ」とか「鐘撞堂跡」とかがあったが、山からどんどん離れて行く。引き返すしかなかった。
東北門跡まで戻って、まっすぐの道を行く。
小さな沢を渡ったりして、尾根に登ってゆくと、礎石群があった。礎石がいくつも散らばっているのだ。こんな山の中にどんな建物が建っていたんだと思ってしまう。
ヒノキの林を抜けると、ススキの原であった。左が基山山頂なのだが、まず右に行って坊主山に登ろうと思う。尾根を行くのだが、両側にはヒノキの林で、その間をススキが埋めている。登山道はススキの間に続いているのだ。
急登して山頂に着いたが、そこには山頂標識も何もなかった。
引き返して基山を目指す。行く手に基山山頂が見える。芝生に覆われたような山頂で、いろんな施設たっているが見える。

草原を登って山頂に着く。本当にゴルフ場のグリーンのようで、その芝生の上を歩いて行く。方向指示盤のある山頂からは、下に街並みが展望できた。
芝生の平坦地の真ん中には基肄城跡と書かれた石碑がたっている。驚いてしまったのだが、この城は戦国時代のものではなくて、7世紀、天智天皇のころの朝鮮山城なのだ。日本最古の山城だという。
さらに進むと、小高く盛り上がったところがある。その上には大きな岩があって、岩の前には小さな仏像がいくつか置かれた祠があった。そこには参拝者なのか、
3人のおばさんが袈裟をつけて座っている。祠の横には、なぜか、日の丸の旗がいくつもたてられているのだ。
この後に青銅の高い尖塔が立っていて、後に回り込むと、天智天皇欽仰之石碑と書かれていた。
基山山頂は、本当に広々としていて、明るくて、登ってくる途中の薄暗い雰囲気がうそのようである。気分も明るくなって、来た道を戻った。
登ってくるときは、ひどく遠く感じたのだが、あっというまに登山口に戻ってしまって、時間は2時半であった。
明日は九千部山に登るつもりだ。


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古墳があった


登山道入り口


不動尊が立つ行場があった


礎石群がある


樹林から抜け出すとススキの原


基山への登り


基山山頂








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