私の近畿の山百選
おだにやま

標高 494m
小谷城跡登山口→15分→間柄峠→45分→本丸跡→25分清水谷分岐→35分→小谷山山頂→20分→清水谷分岐→25分→御屋敷跡→15分→小谷城戦国歴史資料館→15分→小谷城跡登山口

小谷山にはかって浅井長政の居城があった。浅井長政に嫁いだのが織田信長の妹 お市の方で、その娘三人が後の淀君であり、徳川秀忠の妻となる江である。私は登山としてよりは、史跡を巡るつもりでこの山に入った。
車道から小谷山を望む

 登山口から間柄峠へ
登山口の駐車場


閉鎖された大手道


紅葉の道を行く


出丸に着く


100m毎にある標識


間柄峠

BACK 段ヶ峰

20091113

雪彦山に登るつもりで登山口に泊まったのだが、夜半から雨になって、朝になっても止む気配がない。あきらめることにした。天気予報は午前中まで曇りだったので、雨になる前に降りてくるつもりだったのだ。車を走らせてマクドで時間をつぶしていたのだが、昼前から雨は止んで、まったく降る気配がない。今から登山口に引き返しても、明るい内に下山することはできないのであきらめるしかない。なんか一日、損をしたような気分だ。

1114

今日は午後から雨は止むようなので、車を長距離走らせて滋賀県にやってきた。花の百名山の小谷山に登るつもりなのだ。
小谷山は歴史のロマンの山で、一度登ってみたかったのだ。小谷山というのは戦国武将浅井氏の居城、小谷城のあった山で、城主浅井長政は織田信長の妹、お市の方が嫁いだ戦国大名である。織田信長は浅井長政を信頼して、北陸の朝倉を討つべく出陣するのだが、裏切りにあって、陣を捨てて琵琶湖の西岸、朽木谷を疾駆して京に逃げ帰るのだ。このとき、シンガリを勤めたのが豊臣秀吉で、このことによって秀吉は頭角をあらわしてくるのだ。信長が朝倉・浅井の連合軍を打ち破ったのが姉川の戦いで、その後、小谷城は落城、お市の方は3人の娘とともに信長のもとに戻る。この三人の娘の長女がのちの淀君である。お市の方というのは絶世の美女だったようで、その後、柴田勝家の元に嫁ぐことになる。秀吉も相当執心だったようだが、その叶わなかった思いを淀君に求めるのだ。次女は京極氏の妻・初、三女は二代将軍徳川秀忠の妻となり三大将軍家光をもうけるのだ。
信長は浅井長政の裏切りをすさまじく恨んでいたようで、その頭蓋で杯を作ったともいう。
そんな歴史の舞台がこの小谷山なのだ。
登山口に着いたのは1215分、東屋やトイレもある駐車場である。ここから大手道というかっての城の道を上るのだが、駐車場からの道は通行禁止になっていた。この山の所有者が、山菜採りなどを禁止するために閉鎖しているのだ。なんか関西人はせこいというか…。
しばらく車道を歩く。上って行くと、すばらしい紅葉である。10分ほど紅葉を眺めながら上って行くと、右に出丸という標識があった。ここにあの閉鎖された大手道が上ってきている。このすぐ先の左に大手道の入口があった。ここからは歩いてもいいようである。
赤土の滑りやすそうな道を急登する。足下に頂上まで2.4kmと書かれて小さな杭があった。これは100m毎に山頂まで続いているのだ。(山頂直下では50m毎のところもあったが)
急な斜面を登ったところに「間柄峠」という標識がたっていた。朝倉氏の援軍、真柄備中守が布陣したことからこの名前がついたらしい。ただし、これは信長のときではなくて、その前の六角氏と戦っていたときのことである。



 本丸へ
望笙峠の展望台


金吾丸


馬洗池


本丸に残る石垣


間柄峠の先は緩やかな道になって、少し行くと右から車道が接する。車道が大きくカーブするところで、その先端が展望台になっている。ここが望笙峠で、琵琶湖とそこに浮かぶ竹生島が展望できる。

林の中を行くと、頂上まで2kmの標識があった。この先、傾斜が増してきて、樹林から抜け出すと、右に階段道が分かれる。そこには金吾丸という石標がたっているので上ってみることにした。すぐだろうと思ったが、けっこう階段の上りは長かった。山頂は広場になっていて、金吾丸の標識がたっている。琵琶湖も眺めることができた。
上ってきた道と反対側にある階段道を下ると、すぐにさっき分かれた道と合流して、そのすぐ先が林道の終点であった。そこには大きな小谷城の案内板がたっていた。
このすぐ先が番所跡である。御茶屋跡には大きな岩が二つほどあって、茶席の庭なんだろうかと思いながら通過すると、山頂まで1.5kmの杭があった。
すぐに馬洗池と御馬屋がある。石垣で組まれた四角い池があって、これで馬を洗ったらしい。その奥にある平坦地が御馬屋のようである。
ここから岩がゴツゴツする広い道を上ると、大きな岩があった。罪人の首をさらしたという石である。
この先で赤尾屋敷への道が右に分岐するのだが、立ち寄ることはしなかった。たった100mなのだが…。
岩の斜面を上って行くと、大きな石碑が見えてきた。その前の広場が「桜の馬場」で、その一角に浅井氏の供養塔があった。これは最近つくられたものである。このあたりの紅葉がすばらしくきれいであった。
この先には広い石段があって、これを上った平坦地は「大広間跡」である。千畳敷とも言われる主殿の跡で、この先に石垣の残る丘が見える。これが本丸で、ここに城主長政が住んでいたのだ。上ってみると鬱蒼とした林の平坦地であった。ここから大広間跡を見下ろすことができて、確かに千畳敷かと思ってしまうほど広い。



 小谷山山頂へ
大堀切


斜面が段々になっている


山王丸と大石垣の分岐


清水谷分岐


小谷山山頂


本丸からは急斜面を下って、登山道に戻る。その下ったところが大掘切であった。

美しい紅葉の中を上って行く。山の斜面に段々がつくられているようで、その一段ごとに建物があったのだ。本丸の次が中丸、次が京極丸、さらに一段上ったところが小丸。二代目城主久政(長政の父)の隠居していたところだ。
さらに急な斜面を上ると、大きな岩(石垣らしい)が重なる間に石段が残っている。この石段の右に大石垣があるというので行って見た。丘を右から回り込むと、苔むした石垣があった。昔の山城は江戸時代の平城と違って、城のすべてを石垣にすることはなかったのだ。そのほとんどは土塁で、主要なところだけが石垣だったのである。
石段に戻って、大きな岩の間を登った先が山王丸である。ここには山王権現を祀っていたらしい。この平坦地からは、紅葉に包まれた小谷山を眺めることができた。山腹に岩壁を持つ堂々とした山である。
山王丸からは鮮やかな紅葉の中の下りで、狭まった尾根が左に緩やかにカーブして山頂に続いているのが見えた。
鞍部の平坦地は「六坊」で、軍務や政務を司っていた六つの寺院をここに集めたことからこの名がある。
このすぐ先が清水谷との分岐であった。私は山頂を往復して、ここから下るつもりなのだ。
丸太を組んだ階段の登りになる。急登が続くのだが、その登り口には「大嶽城560m」という古い標識がたっていた。大嶽が小谷山山頂である。
鮮やかな紅葉の中、階段を延々と登って行く。途中、樹林の間から辿ってきた城跡の尾根を展望することができる。きれいな紅葉の尾根であった。
大嶽城という標識があって、ここが山頂かと思ったら、まだ階段は続いている。この階段を登ると平坦地に着いて、これが山頂であった。
山頂の標識はないのかと見回したら、右の窪地の真ん中に白い角柱がたっている。それに大嶽城跡と書いてあるので、これが山頂のようだ。この前で休憩しながら、ガイドブックを読んだら、山頂には三角点があると書いてある。この周辺を探したが三角点は見つからなかった。
下山しようとして、この窪地から一旦上がって、下ろうとするところに三角点があった。この前を通ったのに気がつかなかったのだ。三等三角点であった。



 清水谷経由で下山
清水谷を下る


樹林から抜け出して、林道を行く


小谷城戦国歴史資料館


登って来た階段を下って行くと、虹が見えた。そして、雲に隠れて中腹しかみえない大きな山は伊吹山だということがわかった。伊吹山はすぐ近くなのだ。

清水谷の分岐に着き、ここから下って行く。でも、この谷は紅葉にはまだ早くて、緑の樹林の中を下るだけであった。
清水谷には家臣の屋敷跡が多い。土佐屋敷跡、三田村屋敷跡などという石標がたっている。大きな砂防ダムの堰堤を過ぎると杉林に入って、その平坦地には御屋敷跡という石標があった。二本の杉の巨木がたっていて、その奥に小さな五輪の塔がいくつか並んでいた。
このすぐ先で樹林から抜け出して、明るい農道を歩いて行く。やっぱりこの先にも屋敷跡の標識があって、山城屋敷跡・遠藤屋敷跡などという案内標識がある。振り返ると紅葉の小谷山がきれいに見えた。
すぐに「小谷城戦国歴史資料館」があったので立ち寄った。
資料館から、駐車場に向かって歩いて行き、振り返ると、資料館の奥に小谷山が聳えていて、そこに鮮やかな虹がかかっていた。
駐車場に戻ったのは1535分である。


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