日本アルプス全山縦走 
将棊頭山
木曽駒ヶ岳 2956m
伊那市=桂小場→ぶどうの泉→野田場→馬返し→大樽避難小屋→津島神社→行者岩→西駒山荘→将棊頭山遭難記念碑→八合目分岐→木曽駒ケ岳山頂→駒ケ岳頂上山荘

中央アルプス全山縦走は木曽駒ケ岳から始めた。今回のこだわりは「聖職の碑」の遭難記念碑をみることなのだ。そのためには長い長い尾根を7時間も登らなければいけないのだ。
縦走路を行く(右奥が木曽駒ケ岳山頂)

 桂小場から大樽避難小屋へ 1990年冬山登山の記録


桂小場の登山口


標高を書いた標識がある


ぶどうの泉


野田場の水場


明るい樹林になる


横山からの登山道が合流する


権兵衛峠分岐付近


馬返しからの登り


大樽避難小屋


BACK 仙台から伊那市駅へ

2007年825日(土)

持ってきたウールのシャツを被って寝ていたが、明け方はけっこう寒かった。つい先日までは熱帯夜が続いて、大変だったのだが…。
5時になったら駅が開いたので、駅の待合室のベンチで寝なおした。
登山口の桂小場まではバスの便はないので、どうして行こうかと悩んでいる。
考えてきたのは、桂小場から5kmほど離れた横山までバスで行って、あとは歩いて登山口まで向かう方法と、安直にタクシーで行ってしまう方法である。
ただ、駅前のバス停の時間表をみたが、横山に向かうバスの便がない。もしかしたら、駅まではやってこないのかと思って、駅の少し先の十字路まで行って、左右を眺めると右にバス停がある。そこのバス停が横山に向かう便の停留場だった。だが、その時刻表を見たら、始発の8時の便は土曜日曜は休みだった。今日は土曜日である。次は12時までないので、バスはあきらめるしかない。
一人でタクシーに乗るのは高いので、誰か登山者がやってこないかと駅で下車する人を待ったが、登山者はまったく降りてこない。7時近くなったので、あきらめて一人でタクシーに乗った。
街を抜けてどんどん走って行く。山が迫って、さらに谷あいの道になってキャンプ場を過ぎて、もう少し行くと駐車場のある登山口であった。タクシー料金は3500円であった。
駐車場には10台ほど車が停まっていて、その向かいに登山口の標識があった。西駒登山ルートと書かれていて、山頂まで56時間とあった。
歩き始めたのは725分、深い樹林の中を登って行くとすぐに発電所の施設の前に出た。登山道はこの前で右にターンして、斜面を斜めに登って行くのだ。
樹林の中を大きな振幅のジグザグで登って行く。登山道の脇に標高の書かれたカードが置かれている。これは稜線に出るまで続いていた。私が最初に見つけたのは1300mの標識で、木曽駒山頂は2956mなので標高差650mを登ることになる。
登山口から20分ほどで水場があった。「ブドウの泉」である。「ブドウの蔦のからまる山腹から湧き出ているのでこの名がついたもので、独特な味わいのあるおいしい水」なのだそうだ。まだ20分しか歩いていないのだが、このおいしい水に誘惑されて休憩してしまった。確かに冷たくておいしかった。コーヒーを作って飲んだのだが、普段よりおいしいような気がした。
樹林の中の登りが続く。けっこう急な登りで、地図には「ちりめん坂」と書かれている。自然林の中の急登が続く。緑の樹木の間から木漏れ日が輝く。今日はいい天気なのだ。
水場から1時間ほど登ると、上のほうから話し声が聞こえてきた。
おばさん二人が休んでいて、ここが野田場のようである。立ち止まることなくそのまま通過すると急な下りになった。すぐに平坦になったが、そこに水場があって、野田場の標識がたっていた。冷たい水に誘われて、また長めの休憩をしてしまった。今日の歩行時間は6時間40分なので、ゆっくり行っても日が暮れることはないだろうという安心感がある。(これは間違っていた。重いザックを背負っての登山初日は予想以上にバテてしまうのだ。)
山の斜面を斜めに緩やかに登って行く。樹林はいつのまにかカラマツの林になって、明るくなってくる。ようやく尾根に着いて、ここで横山から尾根沿いに登ってくる道と合流する。922分であった。
ここからはカラマツの尾根を緩やかに登って行く快適な道である。行く手にピークがあってこれを急登した上には権兵衛峠への道が分岐していた。権兵衛峠に行く道があるのかと驚いたが、ロープが張られて通行止めになっていた。この分岐のすぐ先に馬の返しの標識が立っていた。
ここから5分ほど行くと白川分岐で、「奈良井宿・白川方面」と書かれたりっぱな指導標がたっていた。
さらにこのすぐ先には落雷事故現場という標識があり、石碑がたっていた。「昭和50724 午後140分、伊那中学校」とある。ここは深い樹林の中なのに落雷に遭うのかと不思議に思った。このコースでの遭難は大正2年のものだけではないらしい。
針葉樹の林を登ってゆく。やや平坦なところに着くと、その一段上に小屋の屋根が見えてきた。これが大樽避難小屋である。小屋の前で休憩。中を覗いてみると、比較的きれいで、充分宿泊は可能である。小屋の前には水場の標識があるが、水は充分持っているので行ってみるのは止めた。



 行者岩へ
六合目


津島神社


胸突きの頭直下


行者岩の分岐


行者岩への登り


小屋から急登が始める。その登り口には
5合目という古い標識があった。胸突八丁の急登が続く。20分ほどカラマツの中の急坂を登ると、「信大ルート」の分岐があった。プラスチックの立派な標識である。桂小場から登山道に入らずに、渓谷沿いに真っ直ぐ進んでから尾根に取り付くと、ここに登り着くのだ。
さらに25分ほど急登すると、ベンチの置かれたピークに着いた。6合目の標識があったが、ここが地図にある「やっとこ平」なのだろうと思う。
この先も胸突八丁の急登は続く。歩き始めて3時間半経過して、いいかげん疲れてきている。急な登山道を、足元を見つめて一歩一歩登って行く。ザックが重くて息がきれる。
登山道の左に巨岩が聳えていた。その前の標識には「弘法石 胸突八丁」と書かれていた。胸突八丁の急登はいったいどこまで続くんだと思ってしまう。
あえぎながら登り続けてふと顔を上げると、今度は神社の標識がたっていた。津島神社とあるのだが、巨岩が聳えているだけで祠はない。ヒカリゴケの標識もあったが、いくら探してもヒカリゴケは見つからなかった。この前で少し休憩した。
あいかわらず急登が続くが、道の様相が変わってきた。岩がゴロゴロする歩きにくい道が続くのだ。この岩だらけの道を急登して行くと、だんだん頭上が明るくなってきて、ようやく樹林から抜け出して標識の立つ小広場に着く。白く朽ちた木柱には「胸突八丁の頭」と書かれていた。1148分であった。視界が開けて山頂らしき山が大きく聳えているのを見ることができた。
やや平坦な道を行く。頭上に樹林はなくて、明るい稜線の道だ。すぐに行者岩の分岐があった。この分岐にザックを置いて行って見ることにした。すぐに樹林から抜け出して、すばらしい展望が広がっている。行く手の尾根の先は三角峰が聳えていて、そのピークには巨岩がそそり立っている。これが行者岩なのだろう。(でも間違っていた。これは茶臼岳なのだ。)振り返って南方を眺めると、木曽駒が一望できた。さらに西には御嶽山が見えるではないか。
岩峰に向かう途中に行者岩の標識がたっていた。そこには平たい巨岩があった。これが行者岩だったのだ。ここから展望を楽しんで、分岐に引き返した。



 将棊頭山
花が咲く道を行く


西駒山荘


小屋の前の広場


将棊頭山への分岐


小棊頭山への登り


将棊頭山山頂


分岐から少し行くと露岩の分岐に着く。右は将棊頭山に向かう道なのだが、積雪期の道で難路とある。私は水場と書かれた左の道を行くことにした。将棊頭山山頂に向かうのかと思っていたら、山頂の左を捲いて西駒山荘に行く道だった。樹林の中をトラバースしてゆく。この水平動からは東側の展望がすばらしい。下には伊那谷の街が見え、その向こうには南アルプスが聳えている。また、北の経ヶ岳もよく見えた。
樹林の中にはお花畑も広がっている。ニッコウキスゲがまだ咲いていた。時々露岩を越えたりしてゆくとようやく樹林から抜け出す。その先には西駒山荘がたっているのが見えた。
さて、ここには水場があるはずだ。今日は山頂直下のキャンプ場にテントを張る予定なのだが、ここに水場はない。今夜使う分と明日一日分の水をここで汲んで背負い上げる必要があるのだ。
小屋のすぐ手前に水場の分岐があった。大きな樹脂のタンクから水が流れ出ているのが見えた。
ここでポリタンと折りたたみの水入れ、さらにペットボトルにも水を汲んで、全部で5リッターになった。がぜん、ザックが重くなった。
小屋まで行くと、その前には裸地の広場があって、ここで東に続く尾根が分岐する。八丁立・辻山・権現山と縦走して伊那スキー場に下ることができるのだ。
この砂礫の広場の端には「コマクサ再生地」という標識がたっていた。木曽駒一帯にはコマクサが自生していたのだが、昭和初期に絶滅してしまったのだそうだ。その後その再生に努力していたのだが、平成2年からは箕輪中学校などの集団登山の生徒によって植え付けが行われて、今再生がはたされようとしているのだそうだ。実際に、この砂地にコマクサの花を見ることができた。
ここのコマクサの花は真紅といっていいほど赤い。私はピンクのコマクサが好きなのだが、この赤い花には再生していこうという力強さが感じられた。
砂礫と岩がゴロゴロする道を登ってハイマツの道になると、天水岩・将棊頭山の分岐があった。この山には登っておきたいので、分岐にザックを置いて山頂を目指した。
背丈の低いハイマツを掻き分けて登ると、碑がたつ巨岩のピークに着く。ここには平たい巨岩があって、そこに水が溜まっていた。これが天水岩だろうか。
この巨岩のピークの先に将棊頭山が見えた。岩がゴロゴロする尾根を緩やかに登って行く。左手には木曽駒が大きい。
尾根から少し急な斜面を登ると山頂である。大きなケルンがあって、その前に山名が書かれた新しい標識がたっていた。
将棊頭山山頂から木曽駒を眺めると、その山頂に向かって長い尾根が続いている。これがこれから私が辿る登山道なのだ。今日は本当に快晴で、真っ青な空が広がり、御嶽山、南アルプスの眺めもすばらしい。



 八合目分岐へ
遭難記念碑


木曽駒への縦走路

八合目の分岐


分岐に戻って、稜線を木曽駒に向かって歩いて行く。巨岩が目立つようになって、ハイマツの中の道を下ると、巨岩があって、その横に石碑がたっている。巨岩の前に出て振り返ると、この岩には「遭難記念碑」という文字が大きく刻まれていた。これが、新田次郎の小説になった「聖職の碑」である。
「大正2826日、中箕輪尋常高等小学校の教師・同窓生・生徒が37名が駒ケ岳への研修登山において急変した台風に遭遇、現在の宝剣山荘に逃げ込んだが、小屋は焼失していた。この破小屋で一夜を過ごそうとしたが果たせず、27日の未明に暴風雨をついて下山を始めたが、結局、赤羽校長以下11名が遭難死した」ものである。
明るい日差しのもと、白く大きく聳える遭難碑を見てもその実感は湧かない。遭難の悲惨さを偲ぶには今日はあまりにも明るく晴れ渡っている。
ハイマツの緩やかな斜面に広い砂礫の道が続く。道には岩がゴロゴロしていた歩きにくい。行く手には木曽駒が大きく聳え、鞍部から急な登りになる。尾根の少し左側を登って行くと分岐があった。ここが8合目で伊勢滝・宮田高原に下る道である。このすぐ先に再び分岐がある。これは濃ヶ池・駒飼池を経由して宝剣山荘に向かう道である。大正2年の遭難はこの道を下る途中で力尽きたのだ。




 木曽駒ヶ岳山頂へ
山頂への道


山頂直下のテント場への分岐


木曽駒山頂への登り


山頂の祠が見えてきた


木曽駒ケ岳山頂


ハイマツの尾根を登って行く。次第に傾斜がきつくなって、岩場を急登するようになった。振り返ると将棊頭山や行者岩への長い尾根が眺められる。この道を登ってきたのだ。

岩だらけの急な尾根を登って行く。時間は15時近くになって、相当疲れてきた。でも、木曽駒への尾根は延々と続く。山頂直下のテント場へ向かう捲き道の分岐に着いたのは1515分である。目の前に聳える尾根の左にテント場と山小屋が見える。よっぽど捲き道を行ってテント場に行き、テントを張った後で空身で山頂を往復しようかと思ったが、その誘惑を振り切って、ザックを背負ったまま山頂に向かった。巨岩が累々とする道を急登する。岩にペンキ印があり、ルートにロープも張ってある。この岩が重なる斜面を登って行くと、祠が見えてきた。これが山頂である。
山頂は岩礫に覆われた平坦地で、二つの祠がある。私が登山道からみていたのは、伊那谷の住民がたてたもので、伊那の方を向いている。そしてもう一つは木曽の住民のもので、木曽谷を向いているのだ。
だから、この山の名前を私はずうっと木曽駒ケ岳といってきたが、この呼び方は木曽のものである。伊那谷の人はただ単に駒ケ岳というのだ。
山頂は人でいっぱいであった。さすがに日本百名山である。山頂ではゆっくりと休憩した。
登ってきた長い尾根の伊那側は晴れているのだが、木曽側は雲で何も見えない。休んでいるうちに山頂も雲の中に入ってしまった。
山頂の記念写真を撮って下山した。ザラザラの急斜面を下って行くと、雲の下に出て、駒ケ岳頂上山荘が見えてきた。その前にはたくさんのテントが散らばっている。
テント場には大きな岩がゴロゴロしていて、その中にテントが張れる小さな平坦地が散らばっている。私がテント場に着いたのは1645分だったので、かなりテント場は埋まっていた。なんとかテントを張って、ほっと一息ついたのは1715分頃であった。
ものすごく重いのを我慢して5リットルの水を運び上げたので、水は豊富である。安心してウィスキーの水割りを3杯もつくって飲んでしまった。


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