自然保護を考える

自然を守ろう、とか自然を愛するとか、声高に唱える人は少なくない。
でも、私はこんなことを考えてしまう。

自然を守ろうと唱える人とか、私たち登山者は、自らが自然破壊の「原罪」を背負っていることを忘れてはいけないと思う。
どんなに自然愛好家で山が好きであっても、登山をするという行為は、それ自体が自然破壊である。
登山道を歩いていて、草木の1本も踏まずに登頂できるということはありえないし、登山道を歩くこと自体が山肌を踏み固め、踏み跡を広げていくことである。山腹とか稜線に、人間による傷跡を刻みつけ続けているのである。
かって、南アルプスのスーパー林道が自然を破壊するということで大問題になったことがあるが、それと本質的に同じではないかと思ってしまうのだ。
さらに、登山者は登山を終えて、そのすばらしかった山行のことを誰かに話し、その山を薦めたりする。(私がこのホームページで山の紹介をしているのも同じことなのだが)
これは、観光資本が宣伝活動をして観光客を呼び集め、自然を破壊していくのと、規模こそ違っても同じではないかと思うのだ。
例えば、尾瀬の自然が好きで、尾瀬を愛している、だから毎年尾瀬を訪れる。友人を誘って仲間で訪れる。こうした多くの尾瀬の「自然を愛する」人が、津波のように押し寄せて、尾瀬の自然は破壊されていく…。
彼らに、自分が自然破壊の行為者の一人であるという認識はない。

さらにこんなことも言える。
現代にあっては、街にいて生活すること自体が自然破壊に与することだということである。
今の生活は電力なくしてはなりたたないし、物流のためにはモータリゼーションが欠かせない。
電力は火力発電と原子力発電によって生み出される。石油を燃焼させる火力発電は二酸化炭素を吐き出し、原子力発電は核廃棄物を生成する。
またモータリゼーションは大地を削り山を切り裂いて、アスファルトの道を造り続け、その道を排気ガスを撒き散らす車が走る。
家の中を見回すと、石油化学によって生み出された合成樹脂が満ち溢れている。これらがゴミとなり、焼却されるとき有害物質が形成される。
現代の「便利な生活」は、こうした自然破壊によって成り立っているのだと思う。
自らは自然破壊の生活システムにどっぷり浸かっていながら、他に対して自然保護を叫ぶのは笑止と言わざるを得ないではないか。
自分は決して自然破壊をしないとするならば、縄文の昔の生活に戻るしかないのだ。
でも、それは不可能なことである。
だからこそ、私は現代人はすべて、自然破壊の「原罪」を背負っていると言う。

私は、他人に対して厳しく自然を守れと叫ぶ人を信用できない。他を責めることは簡単である。
大切なことは、自分も自然を破壊している一人であるという認識をもって、そのうえで自然のことを考えることではないだろうか。



さらに、極端な言い方をしてしまうと、人が「自然保護」云々を唱えること自体、人類の驕りかもしれないということだ。
人も地球の自然を構成する1パーツに過ぎないということを思ってしまう。

現在、人類による地球規模での自然破壊が進んでいる。
石油の大量消費は二酸化炭素を吐き出し続け、大気を汚染し続けている。
片方でアマゾンの原生林や東南アジアの森林地帯では大規模な伐採が行われていて、地球の大気浄化システムは破壊されようとしているのだ。
この世界規模での緑の消失は地球温暖化を招き、やがては氷河期を呼び寄せることになるといわれている。
人類による自然破壊は、人類自体を滅ぼすことに他ならない。
でも、それこそ自然が行う「浄化」であって、動植物が異常に発生したときに自然が行う調整機能である。
地球の生態系の一要素である「ヒト」が、繁殖しすぎたがゆえに滅亡し、再びバランスのとれた生態系にもどる。これが「自然」の力だと思う。
人がいかに小賢しく自然を守れと叫んでも、それはまるでお釈迦様の手のひらの上で右往左往している孫悟空みたいなものだろう。
自然とは、人類が「保護」しなければいけないというようなヤワなものではないのだ。

古生代ジュラ紀においては恐竜がこの地球を支配していた。恐竜は絶滅してしまったが、それでも1億年にわたってこの地球上に君臨した。
人類は旧石器時代からまだ50万年しかたっていない。
人類はあとどれだけの間、地球で覇を唱えることができるのだろうか。
人類が地球上の全生命を道連れにして滅んだとしても、地球の自然は何千万年か何億年かをかけて生命サイクルを修復し、再び地球を緑の星にしてくれるかもしれない。それが自然の力だと思う。

…以上は私自身への戒めでもある。


平成151112









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